【アーカイブ:旧ブログより】津久井やまゆり園での事件(相模原障害者施設殺傷事件)について:2017年6月
この事件について主張したいことはあったのですが、なかなかまとめる時間がありませんでした。
くじらの採用面接で、「津久井やまゆり園での事件について覚えていますか?この事件についてあなたの考えを聞かせてください。」という問いかけをしました。
重度の障がいをもって生きているひとへの考えかたが自分に近いかどうか知りたかったからです。
事件の概要について振り返りは、キーワードで検索してみてくださいね。
ウィキペディア「相模原障害者施設殺傷事件」
自分なりの考えを書いてみます。
この事件が騒がれた理由は大まかに2つ
・加害者の「障害者は死んでくれた方がいい。」「障害者は不幸を作ることしかできません。」等の主張
・加害者が事件の4か月前まで精神科に入院中であったこと
だと思っています。
今回は、この前段について記してみます。
- 加害者の主張について
人々の過半数がこういった主張に同調したってことはないのでしょうが、加害者に同調的な意見をあることをちらほら見聞きしました。
石原慎太郎が「あれは僕、ある意味でわかるんですよ」と発言したことがありました。
わかってないなあ。
いま僕たちが、誰かにすごく怒ったり、誰かをすごく怒らせたりしても、誰かを殺したり、誰かに殺されたりしなくても済んでいるのは、なぜでしょうか。
人を殺してはいけません、人を殴ってはいけません。というルールが浸透した社会に住んでいるからです。
このルールは、徹底的に守られてこそ意味があるのです。
ルールって、破るひとがちょっと多くなると「自分も破ってもいいかなあ」って思えてしまうのが人間です。だから守るなら徹底的に守らねばならぬのです。
そしてこのルール、単純でわかりやすくなければいけません。
「こういう人はいいけど、こういう人はダメ」なんて細かいルール、大衆に浸透しません、わかりやすくないと。ヒトってそこまで頭は良くないです。
『人を殺しちゃいけません』という単純さゆえにこのルールは浸透するし、ルールはやるなら徹底的に守らなければ意味がないのです。
ゆえに、死刑への過程には厳格な例外としてのルールが定まっていて、尊厳死の議論はとても慎重にすすめられています。
『人を殺しちゃいけません』とルールとひとつづきに『人は生きなければいけません』ルールもあります。人を殺しちゃいけません、だから人を見殺しにしてもいけません、命は大切です。といったものでしょうか。
重度の障がいをもっている、他者からの援けがなければ生きていけないひとたちがいます。『人は生きなければいけません』というルールによって、彼ら彼女らは援けを得て生きています。
重度の障がいをもっているひとは『人は生きなければいけません』というルールの象徴です。
象徴って、とてもとても大切なものです。
天皇陛下が日本国を象徴しているように、重度の障がいをもつ人たちは日本国の命を大切にするルールを象徴しています。
その命の大切さの象徴を、この国の穏やかで平和な生活の象徴を、加害者は殺したのです。
こんな大犯罪、あってたまりますか。
この国の平和を、『人は生きなければいけません』『人を殺してはいけません』『命は大切に』という平和の大前提、超大切なルールをいちばん、先頭を切って戦い守っている存在。その存在こそ、重度の障がいをもって生きているひとたちです。
僕やあなたが穏やかに生きていられるのは、重度の障がいをもって生きているひとたちのおかげさまなのです。
このルールが破られるようになったら、僕もあなたもすごく怒らせた誰かに殺されてしまいます。
もし加害者の「障害者は死んでくれた方がいい。」「障害者は不幸を作ることしかできません。」という主張に同情するなら、誰かに殺されても文句の言えない世の中が良いのだ、と言い切る覚悟が必要です。
そんな主張は、戦争を知らない人が戦争を美化し憧れるような、贅沢で稚拙で矮小な格好悪いワガママです。
「働けない人って生きている価値がないじゃない?」などという気持ちをもった人がいることを既に僕は知っているし、この気持ちはとても根深いものでなかなか拭えないものであろうことも知っています。その気持ちそのものは悪じゃないと思います。
でも、僕やあなたが穏やかに生きていられるのは、重度の障がいをもって生きているひとたちのおかげです。
『命は大切なもの』というルールは、みんなが守っていかなければならない、不変でなければならないルールです。