コラム3、そもそも『障がい』とは

そもそも障がいとはなにか、

私たちが生まれて1番最初に「障害」という言葉に馴染んだのはきっと

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障害物競走、というものだったと思います。

障害物競走は、走る人が誰なのか、5歳なのか10歳なのか20歳なのかによってもできるかできないか変わってきますし、ハードルの高さによってもできるかできないかが変わってきます。

そして、この状況全体を「障害物競争」と呼ぶけれど、走る人を「障害」「障がい者」とは呼びません。

障害という言葉は、そもそもこんな感じの概念なのです。

例えば、このようによく図示されます。

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私たちが車いす移動で、目的地が2階で、その建物には階段しかない。
この状況でも私たちが上半身を上手に使えていたら、なんとかよじ登ることができるかもしれませんが、危ないし、不便です。
この「困っている感じ」が障がい、とされるところです。
あるいは、このようにも表せます。

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目的地が高いところで、階段も何も無くて、ロープしかない。
この状況では、身軽で筋肉ムキムキの人なら登れるかもしれないし、みんなも鍛えれば登れるようになるのかもしれませんが、やっぱり危ないし、不便です。

この危なさ、不便さは、困っている感じは、このようになれば解消されます。

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↓エレベーターをつけるとか↓

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↓階段をつけるとか↓

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このように図示できるように、身体障がいは、危なさ、不便さ、困っている感じの、そのもとは身体のどこかの、形に特徴があったり不調があったりから生じているものなので、目に見える形での説明がしやすく、理解もしやすいです。内臓系などは目に見えないので例外もありますが。

その半面、発達障がい・知的障がい・精神障がいは、目には見えづらいものなので、図で表すのは難しいです。

ただし見えづらい脳神経のしくみの中に、形に特徴があったり不調があったりして、危なさや不便さや困っている感じが生じている、というのは確かな事実です。

目には見えづらくとも、障がいとしての危なっかしさ、不便さに困っている状況は同じです。
福祉の援助を必要としているのです。

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ここから理解してほしい重要なところは、福祉実施の領域においては「障がい」とはその人のことを指し示すのではなくて、「危なっかしい・不便だ・困っている」という状況を指すものだ。というところです。

危なっかしいから安全になるよう手伝う必要があって、不便だから解消する必要があって、困っているからサポートする必要があるのです。
危なくも不便でも困ってもなければ、手伝ったり解消したりサポートしたりする必要はないから。

あるいは自分じゃなくて、誰かを危なっかしいめにあわせてしまったり、大いに不便をかけてしまったり、困らせてしまっていても、手伝ったり解消したりサポートしたりする必要が生じますね。

逆説では、自分も誰も困らせてはおらず、危ないめにあってもあわせてもいなくて、不便を感じたり感じさせたりしていなければ、自分のせいじゃなくできないことや苦手なことがあろうともそれはもはや「障がい」とは呼べないんじゃないか。ということです。

精神障がいの領域のリアルな例を上げるなら、
たとえば貯金がないのに「自分は35億の貯金がある」という妄想症状があって自分や家族のお金を食いつぶしてきた歴があるひとは、自分や誰かを危なっかしいめにあわせてしまって大いに不便をかけてしまって困らせてしまって、に該当するので「障がい」がそこにはある、だからサポートしなきゃ、となります。
たとえば60歳なのに「自分は25歳だ」という妄想症状があっても、その妄想だけならさして生きていくことに危なっかしさも不便も困り感も困らせ感もそんなにはありません。だったらそこの箇所には「障がい」はない。と考えられます。
でも80歳になったときに「自分は45歳だ」となっていたらむちゃな階段を昇り降りして転んで骨折してしまうかもしれないので、きっと介入が必要になりそうです。

*あくまで福祉実践の場では、の話です。病名診断や制度上の障害とはまた別です。

ようは「本人が困っているか誰かを困らせたりしていなければ、『障がい』じゃない」とも言えます。
そしてその困っている「状況」は変えることができます。人そのものは変わるのはなかなかたいへんですが、状況というのは可変です。
『障がい』があるかどうかは、状況で変わります。

たとえば、自分の姿や仕草や声かけが相手や周りにどういう印象を与えるのかを想像できない、という特性をもっていてかつ、小さな子供らを見つけると仲良くなりたくて話しかける、という人がいたとします。
その人が祖父母と田舎で暮らしていて、近所の住民も学校も「まあ、ああいう人なんだな」となんとなく納得されていて、その人に子供らに話しかけても問題視されない環境にいたとします。あくまでイメージですが、イメージできますよね。
その人が、祖父母が亡くなって両親と都会に住むことになって、まわりから「ああいう人」とあいまいに納得されなくなり、近所の子らや親御さんたちや学校の先生たちから問題視されてしまったら、それは困りごとを生んでいるので、『障がい』として困りごとを解消したり軽減したりのサポートを受ける必要が生じてきます。

本人個人はまったく変わっていないのに、状況によって『障がい』とされたりされなかったりするのです。
こういう変遷はレアでもなんでもなく、職人のお祖父ちゃんの作業の一部を手伝って生計をたてていたけれど、お祖父さんが歳を重ねて仕事ができなくなって困ってきていて、などなどよくあるケースです。

また、その人個人の同じできること・できないことがほとんど同じで、そんなにがんばってきつい仕事はしなくてもいいや、と思っているのも同じ、という2人が居たとしても、片やご両親所有の財産がたっぷりあれば経済支援は不要であろうし、逆に困窮していれば経済支援が必要です。

*こういう例え話を講義ですると『お金があれば障がいは障がいじゃないって中條さん言うけど、ほんとうにそうなの?』とかばちくそおバカな質問してくるバカがいるのですが、困りごとの一部にスポットを当てた、理解を捗らせるための例え話ですからね。
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総括すると

『障がい』とはその「人」のことじゃなく、“困り”がある「状況」を指す言葉です。

『障がい』『障がい者』は“困り”があるか否か=サポートの要否を判断するうえで、その有無を判断するための指標なので、悪い言葉でもなんでもないです。

ただ悲しきかな不勉強でバカでクズな人間がこの世にはけっこういて、『障がい者』を「“困り”がある状況にある人」という正しい言葉の理解をせずに、「この社会にとって障害になる者」と誤った用いかたをしている人がいるせいで、傷つく人がいます。

『障害』を『障がい』と表記するようになったのも、かつてそいつらが生む傷をちょっとだけでも柔らかくするための日本でみんなで考えた作戦だったのです。

わたしたちにとっては『障がい者って言葉じたい良くない、使うのやめる』とか『なんだよ害を「がい」って書くの、偽善者ぶりやがって』とかいう不勉強でバカでクズな人間どもが、大切なことなのに100かゼロで総まとめにして論じるサルどもがこの世から抹消されて、『障がい』というものが正しく理解されるよう取り組んでいくことも大切な仕事です。
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そして現場におけるわたしたちの仕事は、『その人ひとりひとり千差万別の、その人ならではの困りごと・困らせごとを解消していく・和らげていく』のが仕事です。
その人個人にではなくて、その状況全体に向けてアプローチしていくのです。